第3回  マスタ・アンド・コマンダ

 このシリーズの第1回にホーンブロアのDVDのお話がちょっと出てきました。その題名が「マスター・アンド・コマンダー」なんですが、これを直訳すると「航海長と海尉艦長」となります。そんな、という題名でちょっと英国海軍に詳しい人はおかしいんじゃないのと思うはずですが、先ずは帆船時代英国海軍の階級を見てみましょう。

 

 士官に相当するのは提督、戦隊司令官(コモドア)、勅任艦長、海尉艦長(コマンダー)、海尉、士官候補生です。この下に准士官があり、航海長、船匠、掌帆長、掌砲長、主計長、軍医、司厨長、従軍牧師、指導教官、先任衛兵伍長が入ります。さらにその下が下士官で、例えば航海士、掌帆士など准士官のまあ手下という階級です。その下が水兵で、これはA級水兵と一般水兵に分かれています。当時の軍艦には階級にも入らないような最下級乗組員がいて、それが「パウダー・モンキー」と呼ばれる少年たちでした。日常は下士官たちの使い走り、戦闘のときは火薬庫から火薬を各大砲に届ける役目でした。これについては別の回で説明しようと思っています。

 

 海尉というのは本来軍艦に乗り組む士官で、その順位は乗り組む艦によって決まります。もし乗り組んだ艦に2等海尉までいたとしたらその海尉は3等海尉として乗り組むことになるのです。ただし一等海尉は別で、これは副長(副艦長の略でしょうね)ですから別の艦にも副長(一等海尉)として任命されることもあるのです。これら海尉は制度上軍艦の指揮を取ることはできません。

 

 一方で軍艦の指揮を取ることのできる階級は勅任艦長です。任官試験に合格し任命されると艦長名簿に登録され、上の人が死んだり退役したりすると段々に名簿順が上がり出世の階段を登るのです。腕もよく、運もよければ(つまり引きがあったり、死ななければ)提督にもなろうというものです。こういった立派な艦長に小型艦の指揮を取らせるわけにはいきません。一般的に勅任艦長はフリゲート艦以上を指揮したのです。

 

 そこで、海軍で「スループ艦」と呼ばれる小型艦を指揮するためにできたのがコマンダーという階級です。基本的な身分は海尉ですが、任命試験などを経て小型艦の艦長、つまりコマンダーになることができ、これを「海尉艦長」と訳しています。スループとは商船の場合は1本マストの小型船を指すのですが、海軍でいうスループ艦は小型のシップ型艦やブリッグと呼ばれる2本マストの小型艦、同じく2本マストのボムケッチ、1本マストのカッター艦などを総称した軍艦の区分です。

 

 この辺りの名称は指揮官によりかなり厳格に適用されたようで、例えば反乱の起こったバウンティはもともと石炭運搬船を軍艦に採用したので、本来ならスループ艦です。しかしこのときは勅任艦長のウィリアム・ブライが艦長として指揮を取ったのでフリゲート艦と呼ばれました。一方「海の風雲児Foxシリーズ」に出てくるジョージ・アバクロンビー・フォックス海尉が臨時にブリッグ艦の指揮を取ったとき、正規のコマンダーではなかったために、「おれが任命されていればこの艦はブリッグ型スループ艦といえるのになあ」と嘆く場面が出てきます。

 

 ところで主な准士官の方ですが、この順位は最高が航海長(マスター)、その次が船匠(カーペンター)でその下に掌帆長(ボースン)、掌砲長(ガンナー)、主計長(パーサー)の3者がありこれは同列です。航海長は航海に関しては艦長に対し全責任を負っていて、大ベテランが任命されるのが普通でした。次席が船匠、つまり船の大工さんというのが面白いところですが、当時の船匠はマストの管理から水漏れの防止(なにしろ木造船ですからね)、船底のビルジ水の管理、戦闘時の破孔の修理など木造帆船には絶対に必要な職務だったのです。准士官の第2位にいるのももっともです。

 

 普通、航海長はスループ艦以上に配置されているのですが、初期の小型艦では航海長が配置されていない場合もあったのではないかと思われます。コマンダーに任命される海尉は当然航海についてベテランでしょうから航海長がいなくても職務を全うできたのでしょう。そのため「マスター・アンド・コマンダー」という古い階級があったと、これは私の想像ですが、おそらく間違ってはいないと思います。これをどう翻訳するか、「航海長兼務海尉艦長」あるいは「海尉艦長・航海長兼務」というのが一番妥当だと私は思っています。

 

 ついでにいえば、「英国海軍の雄ジャック・オーブリー」の中で、オーブリーは友人でもある新任の軍医スティーブン・マチュリンの質問にこう答えています。「ドクター、きっと航海長(マスター)と航海長兼海尉艦長(マスター・アンド・コマンダー)という言葉がまぎらわしかったんだ ― 正直言って理屈に合わない言葉だから。前のが後より位が下だ。そのうち海軍の階級について、説明しなけりゃいけないな(高橋泰邦訳)」。

 英国人でも素人にはこの用語は難しかったようで…。