第4回  昇任試験

 18世紀ごろの英国海軍で出世しようと思ったらどうしても昇任試験を通らなければなりません。士官階級の最初は「士官候補生」で、大体13歳ぐらいから任官します。士官候補生になるのはかなりいい加減なところがあって、艦長が友人や支援者に依頼されて採用することもあり、あるいは有力者が艦長に斡旋を依頼して息子をどこかで採用してもらうという例が海洋小説を読むといくらでも出てきますから、まあ正規の昇任試験はなかったようです。また下士官である航海士などから士官候補生になることも可能で、そのために水兵から提督まで出世した例が実際にあったといいます。

 

 しかし、士官候補生から正規士官、つまり「海尉」の階級になるにはかなり厳格な昇任試験があるのです。海尉はLieutenantと綴るのですが、私が中学生のころは「リューテナント」と発音するのだと習いました。ところが1986年のアメリカ映画「トップガン」を観ていたら戦闘機乗りの海軍大尉を「ルテナント」と呼んでいるのです。たぶんアメリカ英語でそう言うのでしょうがこの方が一般的かもしれません。

 

 この昇任試験、どういう風に行われたのか「ホーンブロア」の「海軍士官候補生」の巻にはこんな描写があります。この時ホーンブロアはフリゲート艦インディファティガブルのペルー艦長から戦場任命で「海尉心得(小説では少尉心得となっています)」となっていたのですが、これは正規任命ではなく正式に昇任試験を受けなければなりません。

 「…ホーンブロアは書類を手渡し、それが吟味されるのを待っていると、左手の顔が出し抜けに口を切った。

『君はいま左舷の詰開きで、強い北東風を受けながら、ドーバーを北2マイルに見て英仏海峡を間切って北上している。いいかね?』

『はい』

『いま、風が四ポイント回って、君の船は完全に裏帆を打つようになった。君はどうするかね? どうする?』

ホーンブロワー頭が考えていたのは…(中略)…航程線のことだった。だからその唐突な質問にあって、彼は問題の状況と同じく裏帆を打った(不意を突かれたの意)。かれの口が開いて結んだが、一言も言葉にならなかった。

『もうマストはへし折られた』中央の顔が言った…

『マストはへし折られた』左手の顔が言った。キリスト教徒の断末魔の苦悶を楽しむネロのような微笑を浮かべている。『ドーバーの白亜の断崖が風下にある。君は重大なピンチに陥ったぞ―ええと―ホーンブロア君』(高橋泰邦訳)

と、まあこんな具合に追い詰められるのですが、幸か不幸かその時に泊地は敵の焼討船の襲撃に会い試験どころではなく試験官共々その対策に大わらわとなり、適切な処置をしたためにホーンブロアはめでたく海尉に昇任するのです。

 

 海尉昇任試験はかなり専門的な知識を問われることが分かりますが、なりたての海尉といえども部下を指揮し、上級士官が全部戦死でもすれば一艦の指揮を取らざるを得ないことを考えるとこれは当然だともいえるのです。したがっていくら試験を受けても合格せず相当の年になっても士官候補生のままという輩も出てくるわけで、これが若い者をいじめる構図が海洋小説では定番となってもいます。もっとも何れの世界にも例外はあるもので、当時の英国海軍の士官は貴族・紳士階級の出身者が多く、ぼんくら者は贔屓や金で出世したこともあったようでフォックス・シリーズを読むとそのあたりがよく出てきます。

 

 海尉の上の階級というと前回ご紹介したコマンダー、海尉艦長です。基本的な身分は海尉なのですが小型とはいえ一艦を指揮するのですから当然昇任試験を通らなければなりません。しかし、戦時に艦隊司令長官がコマンダーに任命することもあり、これは後に正式に任命される必要があったようです。

 

 ホーンブロアは戦列艦レナウンの海尉から提督の任命でスループ型スループ艦レトビューションのコマンダーに任命されます。コマンダーは左肩に線章をつけてその身分を表すのですが、ホーンブロアはその直後にアミアン条約による講和が成立したためにその任命はオジャンになり、長い半給海尉として浪人生活を送った後で再度戦時下の正規任命で「砲艦ホットスパー」をコマンダーとして指揮することになるのです。

 

 コマンダーの次の段階は「ポスト・キャプテン(勅任艦長)」です。正規艦長ともいわれているのですが、どの海洋小説を読んでもポスト・キャプテンの昇任試験というのは出てきません。人数が少ないこともあると思いますが、海軍の中で優秀な海尉艦長は誰でもそれと分かったのだろうと思います。戦闘のたびに海軍委員会(今の海軍省ですね)宛に戦闘詳報が上がりますし、当然戦功を立てた海尉艦長には戦隊あるいは艦隊司令官から報告と褒章推薦が上がりますから海軍委員会はかなり情報を把握していたと思われます。また海軍委員は提督経験者で構成されたようですから、当然現役時代に多くの優秀な士官を知っていただろうと思われます。

 

 そこでポスト・キャプテン適任者を海軍委員会が決め、形式上は推薦によって国王の勅許で任命されたと考えられます。そのためにポスト・キャプテンは勅任艦長と訳されているのですが、現在の階級でいうと海尉は尉官クラス、コマンダーは尉官と佐官の間で、まあ少佐でしょうか。ポスト・キャプテンは佐官クラスですが任官から3年間は右肩のみに肩章が付き、中佐といってもいいでしょう。両肩に肩章がついて初めて本物の艦長となり、これは大佐ということになります。海上自衛隊の階級では、この大、中、少は1等、2等、3等となりますが…。

 

 当時の英国海軍では前述のように貴族・紳士階級は大きな引きがあり若くしてポスト・キャプテンの地位に就き、甚だしい場合は任官後3年を経ずして両肩に肩章を付けたという例も小説には出てくるのです。逆に言えば身分と引きのない海尉艦長がポスト・キャプテンになるのがいかに大変だったか想像に難くありません。身分も引きもないホーンブロアがスループ艦ホットスパーの海尉艦長からポスト・キャプテンに任命される場面は小説の中とはいえ感動的です。

 

 退役間近かの海峡艦隊司令長官ウィリアム・コーンウォリス提督に呼ばれたホーンブロアは緊張して提督の前に出ます。直前の海戦でフランスのフリゲート艦を望遠したので艦隊の旗流信号に従わず敵艦を追って拿捕償金を逃したばっかりだったからです。

『…個人的な話に移ろう。わしは旗を降ろすのだ、ホーンブロア。』

『なんとも残念なことです。』…ホーンブロアは心底から残念に思ったし、そのことはコーンウォリスも十分に承知していた。…(中略)…

『このことで、何か思い当たることはないのか?』

『ありません』…(中略)…

『それほど無私無欲な人間が存在し得るとは、考えてもみなかったな。引退前の司令長官に与えられた最後の特権が何であるのか覚えていないのか?』…(しばらくの後)…

『ああ、もちろん』

『だんだんと気が付きかけてきたようだな。わしは三つの特権を与えることが許されている。士官候補生から海尉、海尉からコマンダー、コマンダーからキャプテンと』

『はい』ホーンブロアはそれだけいうのがやっとであった。思わずゴクッと生つばをのみこんだ。

『たいへんいい制度だ』コーンウォリスが続けた。『軍歴がまさに終らんとする時に、司令長官は、公平無私にそれらの昇任を与えることができる。彼は、もはやこの世に期待し得るものはなにもない。だから、海軍のためのみを念頭に人を選んで、後継者への置土産にすることができる。』

『はい。』

『まだわからんのか? わしはきみをキャプテンに昇級させるつもりなのだ。』

『ありがとうございます。何と言ったらいいか…』本心であった。物が言えなかった。(高橋泰邦訳)

コーンウォリス提督は歴史上に実在する人物です。その人柄から水兵にも人気のあった提督として知られているのですが、晩年にバス勲章を与えられサー・ウィリアムとなります。海洋小説には実在の人物がよく出てくる、というより、むしろ現実の海軍の中に小説の主人公が存在すると言った方がいいような場面がたくさんあります。退役時の提督の特権が本当にあったのか分かりませんが、英国の海洋小説の成り立ちから見るとおそらく本当だったのではないかと私は思っています。

 

 身分と引きによる昇任もある中で、有能な人材が海軍の中枢に取り立てられるという制度があったということに、何かほっとするような気がするのはおそらく私だけではありますまい。