福田正彦
4-1 本艦位置の確認―天測
船の航海というのは、日常業務をこなすきわめて退屈なものだ。海洋小説と違って軍艦といえども日常航海でつぎつぎと事件が起こるものではない。英国からカリブ海諸島まで帆船で行くとなると、まあ数十日は覚悟しなければならないだろうし、予見された海戦と違って時期にもよるが敵艦との遭遇もその航海中に1回でも起これば御の字といえる。まして宝物を積んだ敵国商船との遭遇などは海軍生活を通じておそらく1回もないと覚悟する必要がある。拿捕賞金を獲得するのは難しいのだ。
海は広いに違いないが、甲板の上から見える範囲はせいぜい6、7㎞先までで視界は限られている。だから毎日まいにち海しか見えない日々が延々と続く。その日常生活に変化をもたらすものといえば多くが天候だ。嵐が起こることもあるし、強風で縮帆を止むなくされることもあるだろう。予定進路より流されるかもしれない。したがって目的地に着くためはもちろん、本艦が地球上のどの位置にいるかを知るのは絶対に必要だ。現代と違ってGPS(全地球測位システム)があるわけではない。すべて天測に頼っていたからだ。
単にいうと北を上にした地球をいくつも横に輪切りにした線が緯度で、一番ふくれている真ん中の赤道より上を北緯、下を南緯という。一方地球を上から見て、西瓜切りのように中心を通る線でいくつも縦割りにしたのが経度で、どこを基準にしたかというとロンドン郊外のグリニッジ天文台を通る経線(これを本初子午線と呼ぶ)が0度になる。その経線の右側(東側)を東経、左側(西側)を西経というのだ。地球をぐるりと回って180度になった場所が東経と西経の終点で、同じ線になる。これが今でいう日付変更線のそばだが、日付変更線そのものは各国の事情でいくつか曲がっている。
つまり何丁目何番地と同じで、緯度と経度が分かれば地球上での場所が特定できる。例えば東京はほぼ北緯35.7度、東経139.7度で示される。ロンドンはほぼ北緯51.5度、経度は0度に近いからかなり北にある。余談だが、北緯50度というのはそのむかし、樺太の日本領とソ連領の境界線だった。そのころの子供の感覚では北緯50度は酷寒の地だと思っていた。それはともかく、船に乗っていても緯度と経度が分かれば現在地が確定できることがお分かりだろう。それならば帆船時代の本艦でどうやってそれを測定したのだろうか。
緯度を図るのは比較的簡単だ。太陽が一番高くなる時刻、つまり正午にその高さと水平線との角度を正確に測り、一定の計算式で緯度を決めることができる。あるいは夜間に北極星と水平線の角度を測ればそれが緯度を示すことになる。ただその角度を精密に測る機械が必要で、本艦には六分儀(セクスタン)と呼ばれる測定器が備わっている。
一方で経度を図るのははるかに難しい。簡単にいうと地球は24時間で一回りつまり360度回るから、経度1度を回るのに4分かかる計算だ。つまり出発点と現在点の時刻の差(時差)が4分間なら、経度にして1分離れていることになる。これと緯度が分かれば現在の位置が分かるという原理は理解されるだろう。ただこれには条件があって、時刻を知る精密な航海用の時計が絶対に必要だ。経度測定の難関はここにあった。
航海中船は揺れるし常に動いているから、水時計や日時計は使えないし、そもそもそんな精度では問題にならない。そこで英国政府は精密時計の製作を懸賞金付きで奨励し、英国人のジョン・ハリソンが苦労したあげくに1761年クロノメーターH4型を発明して実用に供されることになった。あなたの時代にはもうクロノメーターが普及していて経度測定に寄与していたはずだ。随分小さくはなったが、この時計の直径は13㎝、厚さが5㎝もあったから、懐中時計としてはかなりの大型といっていい。しかし当時としては画期的な航海用クロノメーターだったことは確かだ。参考までに付け加えると「クロノメーター」という名称は極めて高精度な時計を指す用語で、特に航海や天体観測など、正確な時刻測定が求められる場面で使用される。現代では、公的機関による厳格な精度検定に合格した時計に与えられる名称としても知られている。
ぼくの推測だが、このクロノメーターは航海計器として扱われたと思う。つまり艦内の時計は伝統的な30分砂時計で、当直の交代とか日常の時刻はこれで測ったのだろう。クロノメーターは普段使いするにはあまりにも貴重な計器だからだ。これによって天測の精度は向上し、航海長の苦労をかなり軽減しただろうと思われる。話は少しそれるのだが、これらクロノメーターは一体いくらぐらいで買えたのかを調べてみた。H4型を模倣した量産型のK1型は450ポンドといわれている。時代が少し違うかもしれないが、当時の艦隊司令官の月給は140ポンドで、海軍大将のそれは98ポンドだった。だから450ポンドは艦隊司令官の3か月分の給料を上回る。海軍大将だったら月給の5か月分に近い。個人ではとても買えない値段で、18世紀では国家あるいは軍として購入していたのだろう。19世紀の後半になるとクロノメーターの値段は60~140ポンドになる。あなたの時代は19世紀前半だから、これよりも少し高かったかもしれないが、高級士官なら買えない値段ではない。また、各艦に軍として装備されるぐらいの値段だったと思われる。
さて理屈っぽい話はそのぐらいにして、実際に航海する場合に天測をして本艦の位置を決める責任者は航海長だ。しかし海軍士官なら天測航法に精通していなければならないのは当然で、そのために士官候補生時代から天測と位置計算を訓練される。とくにヤングジェントルマンと呼ばれる若年の士官候補生は毎日の午前中教官から天測航法を教わる。
右の写真は現代のものだが、こうやって六分儀を覗いて太陽の角度を測り、計算によって緯度を決める。経度も自分で計算し(多分原資料は教官から与えられるのだろう)本艦の位置を出す。この計算は大変難しいものらしく「お前の計算によると本艦は目下アフリカの砂漠に浮かんでいるぞ!」と教官から怒られるなどと海洋小説に出てきたりするのだ。
前のように位置確認の責任者は航海長だが、あなたはいずれにしても最終責任を取らなければならない立場だ。位置確認を間違って予定日を大幅に遅れて到着した場合などの責任はやはりあなたにある。だからあなたは艦長として、時には自ら天測してその裏付けを取るぐらいの技量を持っていなければならない。
4-2 海図と航路の記入、水深の測定
本艦の位置確認ができたといっても、それがどこかという点を海図で確かめる必要がある。北緯何度東経何度といってもそこが大西洋のどの位置か、あるいはアフリカの砂漠なのかは海図上での位置確認がなければ天測の意味がない。あなたの時代にはもうかなり精密な海図が揃っていて、特に頻繁に出入りする海域などは詳細な海図もあったはずだ。
最近では航海に使用する海図はほとんど電子海図に代わっているという。正確だし、常に変更がある海図を素早く変えるにはもってこいだ。しかし少し前までは紙の海図に船の航路を鉛筆で記入していたのだ。その時代の本物の海図は立派な紙に印刷されていて、必要なら何回でも鉛筆の跡を消しゴムで消して使用できるような頑丈さがある。海上保安庁で発行される日本の海図は世界共通の性格があり、英語が併記されていて、大型の海図は1枚3,000円以上もするという。

あなたの時代にはもう紙が普及し始めていて、羊皮紙などと並行して、手漉きの亜麻や麻繊維を原料とした丈夫な紙を海図に使っていたはずだ。しかし大変高価だったし、海図に記入する鉛筆がまだ発明されておらず、消せない羽ペンで記入するわけにはいかなかった。黒鉛を使った鉛筆が普及し始めたのは19世紀後半だが、消しゴムの発明はまだで、鉛筆書きを消すのにパン屑を使ったというほほえましい話もある。
実際にどうしたかというと、海図ではなく仮の海図(ワーキング・チャート)を使った。ワーキング・チャートとは簡単にいうと海図のコピーだ。安価な紙や、不要になった海図の裏に海図をコピーして、それを航海中の航路表示に使う。何しろ消せない線を使うのだから1航海限りの使用で、必要なら帰港後に正規の海図に記入したらしい。方法はどうあれ、やはり航路記入は絶対に必要だった。なおコピーといっても当時は全部手書きだ。詳しいことは分からないが、航海長や航海士はコピーに熟達していたのだろう。
また、航海長は海図のない地域に船が行ったときにはできる限り測量をして海図を作っておくのが業務の1つだった。地形を観察し、ボートを出して各所の水深を測って海図を作成するのだ。また水深の測定は海図の作成ばかりでなく、本艦が沿岸近くに行く必要がある場合には必須の作業だ。六等級フリゲート艦である本艦は軍艦としては小型だから、必要ならかなり陸岸近くまで寄ることが可能だ。また慣れない港に入港するときなども座礁を防ぐために常に水深を測定しなければならない。
浅い海の水深を測る方法をみると、まず右の図のように丈夫な麻のロープの先端に重い鉛の重しを取り付け、2,3,5,7,10・・ファゾムごとにみても触っても分かる標識を取り付ける。1ファゾムは6フィート(1.83m)だから浅海用の測鉛ライン20ファゾムまでの目盛りで37mまで測れる計算だ。重しの鉛の底は凹んでいて、海図測定の時などはここに獣脂を詰めて海底が砂か、岩かなどを判断する資料にする。
目印は夜間でも触って分かるように、ファゾム毎にいうと、2(白い皮)、3(赤い布)、5(白い布)、7(赤い布と皮)、10(紺のサージ)・・を使っていた。
どうやって測ったかというと右の図のようにベテランの水兵がチェーン・プレートに立って投鉛するのだが、測定結果を報告するのに独特のいい方があった。
単位はファゾムだから数字だけを呼び上げるのだが、ちょうど目印のところだったら、「バイ・ザ・マーク・ファイブ!」という。これは5ファゾム(ほぼ9m)の深さがあることになる。もし目印が見えないときは「バイ・ザ・ディープ・シックス」という。まあ6ファゾムあたり(ほぼ10m)、という意味だ。また丁度マークの半分ほどだと思うときは「バイ・ザ・マーク・シックス・アンド・ア・ハーフ」という。これは6.5ファゾム(ほぼ12m)にあたる。
本艦のドラフト(喫水線以下船底までの長さ)は最大で13フィート(約4m)と分かっているから、何ファゾムになったら危険だとわかる。もし測定が誤っていたら本艦は座礁しかねないから測深する水兵は大変だ。目印は海面から上に出ているものしか見えないし、ほぼ奇数ごとにしか目印はない。上に見える目印から深度を報告するのだからかなり慣れた水兵でないと信用されなかっただろう。
4-3 旗流信号
帆船時代の海軍で(陸軍ももちろんだが)一番の問題は通信手段だった。無線電信が実際の海戦で役に立ったのは日露戦争時代(明治38年、1905年)ごろの話だ。固定された陸上では、この時代すでに腕木信号機が発達していて、情報量は少なかったが最も必要な情報は腕木を次々と動かしてかなり遠距離の通信に役立っていた。
しかし海上ではそうはいかない。船を近づければメガホンで声が通ずるが、艦隊運動などでそんなことはできない。どうしたかというと旗で意思を知らせた。いわゆる旗流信号がこれだ。信号旗はどういう構成になっているかというと、
アルファベット旗(A~Zまでの26枚)
数字旗(0~9までの10枚)
代表旗 同じ文字などを連続して使う場合に使用(1~3番までの3枚)
回答旗 通信の応答や確認に使用(1枚)
となっている。実際の旗がどういうものかを右下の絵で示しておく。
A旗とかC旗というと、まぎらわしいから例えばアルファーのA旗、チャーリーのC旗といういい方をする。それが右のアルファベット旗にある呼び方の方法だ。substitutesと書かれている代表旗は、例えばBOOKといいたいときにOの旗を2枚使わず「B、O、代表旗の2nd、K」と揚げればいい。つまり2番目に出てきた旗(O)を繰り返すという意味だ。またアルファベット旗の1枚ごとに意味があって例えばB旗は「危険物を搭載している」という意味だが、これは帆船時代にはなくて、確定したのは1930年以降だという。
CODEと書いてある回答旗は重要で、先方からの旗流信号があったときに回答旗を掲げるが、それは「受信準備完了」ということで、受信中は上げっぱなしにしておく。この旗を降ろすことは「信号受信完了」つまり命令であったら、その通り実行するという意味になる。だから信号が終わっても回答旗を上げっぱなしにするということは受信ができなかったか、信号を無視するという意味になる。
回答旗ばかりではないが、旗を下げるということは応答したという意味になる。つまり命令を実行するということだ。明治のころの日本海海戦に一つの例がある。日本艦隊の射撃で大きな損傷を負ったロシア艦隊の旗艦スワロフは舵機の故障で僅か左に転進した。これを見た旗艦三笠の首脳はこれをロシア艦隊の意図的な変針と判断し、それに対応すべく「左八点の一斉回頭」という信号旗を掲げた。つまり三笠に続く各軍艦に、その場で一斉に90度左へ曲がれ、という命令だ。三笠に続く各艦は次々とこの信号旗を掲げ、三笠の信号旗が降ろされると同時に一斉回頭する体制になった。ところが後ろにいた第二艦隊の旗艦「出雲」の参謀佐藤鉄太郎はスワロフの動きが舵機の故障で、直進して行くと正確に判断したのだ。実際に旗艦に続くロシア艦隊は直進している。
もし命令通りに動けば日本の全艦はロシア艦隊から遠く離れることになり、追跡が大変困難になる。とっさに佐藤参謀は第二艦隊司令長官村上彦之亟の賛意を受けて「旗を降ろすな!」と命じ、同時に「運動旗を一流あげておけ!」と命令した。つまり第二艦隊の各艦に「おれについてこい!」と命令したことになる。結局旗を降ろさずに直進した村上艦隊はロシア艦隊を追撃し、大変な艦隊運動の後に追いついた第一艦隊を大いに助けたという結果になった。命令違反すれすれの行動だが、結果としてこの行為がなければロシア艦隊のせん滅に大きな影響があっただろう。(司馬遼太郎著:坂に上の雲、第六巻「死闘」の項参照)
まあこれは余談だが、本艦の士官候補生を訓練するのは絶対に必要だ。当時の旗流信号は海軍全般の方式や艦隊ごとの方式があったらしい。1つの例だが、1805年10月21日の行われたトラファルガーの海戦で総司令官のネルソン提督は「イギリスはすべての者がその義務を尽くすことを期待する(England expects that every man will do his duty)」という有名な旗流信号を掲げたが、その旗は調べてみると右のようだという。前ページの現在の信号旗と比べると全く違い、当時は「パスコ―信号書」に基づく数字旗の組み合わせだ。つまり単語ごとに番号が決まっていてその番号数字を組み合わせた信号だった。掲揚はおそらく7枚ごとに3回の分けたのだろう。
現在の信号旗が確立したのは1857年の国際信号書が公布されてからで、ここでアルファベット信号旗が導入され、現在の方式が完全に確定したのは1930年以降という。
後年の日本海海戦で東郷連合艦隊司令長官は「皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。」という有名な信号旗を掲げさせた。この場合は予めその内容を各艦に伝達しておき、信号旗「Z」で代表することを伝えてあった。この時はもちろんアルファベット信号旗が普及していたら、4色のZ信号旗1流を上げるだけで、各艦はその内容を拡声器によって総員に伝達することができた。
逆にいえば、帆船時代の信号掛士官候補生は数字旗の認識とその数字旗が意味する単語の両方を覚えなければならず、信号書と首っ引きで解読を迫られたことになる。おまけに信号書は極秘事項で、艦隊ごとに新たに決めることもあり、また定期的に更新することで秘密を保っていた。通信方式の少ない当時の信号書をどのように配布したのか、また新旧の信号書の取り換え時期をどのように判断して使用したのかなど不明な点も多いが、旗流信号については乗組みの士官・準士官階級全員が神経を減らして対応しただろうことは容易に想像がつく。
ところで、これら信号旗はどこに掲げられたかという問題がある。調べてみると一般的にはメインマストのトップだという。旗艦からの信号が多いし、艦隊の旗艦は大型の戦列艦だろうから、一番見やすいという点で納得できる。ただ提督旗や艦隊司令官旗が掲揚されているから、信号旗と紛らわしいということもある。旗艦が先頭なら、ミズンマストの方が見やすいかもしれない。結局風向きなどを考慮して一番見やすいマストを利用したのだろうと思われる。同時に、英国海軍では信号旗を一斉に開かせるという伝統があり、また揚げる途中の誤解を防ぐためにも信号旗は丸めた状態で数枚を一度に掲揚し、そのハリヤードをひとひねりすることで一斉に旗を開かせたという。どういう方法かは分からないがこれも職人技だったのだろう。
ところで、この信号旗の確認に絶対必要だったのが遠眼鏡だ。当時まだ高性能の双眼鏡はなかったがレンズはかなり前からあったから、あなたの時代は遠眼鏡、いわゆるテレスコープあるいはスパイグラスともいわれた望遠鏡が本艦にはあった。あなたの時代はかなり改良されたもので伸縮式だが倍率は10倍以上もある。3段か4段式で畳むと30㎝ぐらい、伸ばすと60~90㎝ほどで真鍮製だが外側は皮が巻 かれていた。遠眼鏡は旗流信号の確認ばかりではなく、遭遇した船の国籍旗、信号旗の確認、砲術士官なら敵艦との距離や損害の確認になくてはならない器具といえる。
注意しなければならないのは、この遠眼鏡の倍率は大きいものの倒立像である点だ。つまり上下さかさまに見えるということだ。倒立像を正立させる「正立プリズム」もあったようだが、まあ一般的ではない。
もう一つ必要なのは夜間望遠鏡だ。軍艦にとって夜間の活動は日常作業であり、灯台確認や他艦ランタンの確認はもとより、夜間の索敵などには必須の用具といっていい。光を多く取り込むためにレンズは大きくなり、直径5㎝ほど、倍率は2~3倍、長さも1m近かった。もちろん像は倒立だ。長年の習慣で、海軍士官は倒立像になれていたのだろう。海洋小説などでは、戦闘前に敵情を探るために「一斉に遠眼鏡が敵艦に向けられた・・」というような表現もあるから、准士官以上の人数ほどの望遠鏡を備えていたに違いない。