第16回 指揮官と指揮系統、そして責任(前編) ー 指揮権の委譲 ー

 「グレート・ブリテン及びアイルランドの海軍卿事務代行者たる海軍委員会より、国王陛下の海軍艦長ホレイショ・ホーンブロアに対し以下のごとく下命する。貴官はここに・・・」

「・・・ここに貴官は直ちに乗艦して指揮をとり、艦長の職務を果たすべきを命ず。当該カッター艦の士官及び乗組員全員をして、全員一致して、あるいは個別に、同艦々長たる貴官に対する正当なる尊敬と服従をもって行動せしむるよう、厳正なる指揮と職務の遂行こそ肝要なり・・・危機に際しては、適切にこれに対応し、貴官及び部下の一人たりとも、過誤を冒すべからず・・・」

 

 若い海軍軍人ならだれでもが渇望する一艦の艦長として指揮を取るには、まず乗組員全員の前で任命書を読み上げなければなりません。その内容のおおよそが上の通りなのですが、上段はホーンブロア・シリーズの第4回『トルコ沖の砲煙』で、ホーンブロアがシップ型スループ艦アトロポスの艦長に就任した時、後段はラミジ艦長シリーズの第1巻『イタリアの海』で、ラミジがカッター型スループ艦カスリンの艦長を命じられたときに読み上げた任命書です(上は高橋泰邦訳、下は山形欣哉/田中航訳)。

 

 全文は分からないのですが、おそらく任命書はいつも同じ内容だったと思われます。まず艦長は「海軍委員会」から任命されること、またこの艦の運用にあたって絶対的な権限が与えられていること、更に、艦長も部下も問題を起こせば容赦なく軍法会議で罪を問われることが間接的に示されています。具体的にいえば、戦闘で負けたら軍法会議にかかるのは間違いない、ということです。

 

 こうして任命された「神の如き艦長」は「軍法会議―あるいは国会の法令—をおいて何者も剝奪することのできない身分である。(高橋泰邦訳)」ということになります。また任命書に「直ちに乗艦して指揮をとり」といっているように、この時ホーンブロアもラミジもその艦の「指揮権」を握ったことになるのです。軍隊での指揮権とは絶対的なもので、この制度がなかったらそもそも軍隊が成り立ちません。具体的にいうと、命令する指揮官がいて、その命令を確実に実行するのが乗組員ということです。その意味で、一艦の艦長は「ポスト・キャプテン(勅任艦長)」や「コマンダー(海尉艦長)」というより、軍制上はその艦の「指揮官(OIC=Officer in Command)」といった方がぴったりします。

 

 そのために、何らかの形でこの権限を変えようとすると大きな問題が起こるのです。当時の軍艦で一番重い罪は「反乱」ですが、「抗命」つまり命令違反や上官に対する反抗も指揮権に対する重大な犯罪として罪に問われ、確定すればほとんど死罪です。艦長といえども生身の人間ですから、戦闘で死んだり、病気で退職したりします。こういった場合ははっきりしているので、次席の者か任命者に指揮権が移譲されるので問題は起きません。

 

 そうでない場合、つまり現状の指揮官が任務に耐えられそうもないような状態になったときの指揮権の委譲は、極めて微妙な問題を起こします。ホーンブロア・シリーズの第2巻「スペイン要塞を撃滅せよ」がその好例です。戦列艦レナウンのソーヤー艦長は、小心者で大変猜疑心が強く、士官同士が語らって自分に背くのではないかと疑い、常に部下の士官たちに監視の目を注いでいます。気に入らなければ、落ち度もないのに昼夜の当直を命じたり、1時間ごとに報告に来いと強制したりします。

 

 そのソーヤー艦長があるとき昇降階段から落ちて重傷を負います。任務遂行中の軍艦ですから、指揮官なくては運営できません。明らかに能力がないならば副長(一等海尉)のバックランドが艦長の代役を務めるのですが、確たる証拠がなければ後の軍法会議で反乱の嫌疑で究明されかねないので、そこは慎重にならざるをえません。

副長のバックランドは軍医のクライブに向かって問い詰めます。

「『きみの意見では、艦長は勤務できる状態かね?』

『それが——』クライブはもう一度言った。

『どうだね?』

『差し当っては、多分駄目でしょう。』(以下高橋泰邦訳)」

十分に満足できる返答ではないのですが、指揮官のいない軍艦とは考えられない状況でもあり、結局バックランドは恐る恐る指揮権を引き継ぐ決意をします。その一つが乗組員全員に対する事情説明(任命書に代わるものです)であり、もう一つは・・・

「『彼はやったぞ』ロバーツが言った。

『秘密指令書を読んだんですね?』スミスが言った。

『ああ!』」

つまり、艦長不在のまま代理の副長が南方の基地まで軍艦を持ち込み、その基地司令官に後任の艦長選択を任せる、という方法がある一方で、艦長だけが見ている出港時の秘密命令書を読んで、本艦に与えられた任務を遂行するという選択もあるのです。上の記述は副長のバックランドが後者を選択したことを示しています。

 

 結局、ソーヤー艦長は捕虜の反乱に会って殺されるのですが、ホーンブロアの活躍もあって戦列艦レナウンは無事その任務を全うすることになり、副長バックランドは指揮権の委譲に関して軍法会議にかけられることはありませんでした。しかし、任務遂行に対する褒賞としての昇進はなく、そのあたりはかなり微妙です。海軍という組織は反乱を恐れるので、いったん指揮権の移譲が行われたことに、本能的な嫌悪を持つのかもしれません。

 

 指揮権移譲に関してもう一つ、有名な例があります。それが「ケイン号の反乱」です。ハーマン・ウオークの海洋小説で、第二次世界大戦での、老朽した小さな米国の掃海駆逐艦が舞台の現代の話です。詳しいことは省きますが、新任の艦長クイーグ少佐は、外見は立派ながら、小心者で規則にこだわり、少しでもストレスがかかると左手で2つの鉄球を転がすという奇癖があり、更にこれが増すと前後の見境がなくなる傾向があります。台風に見舞われ、掃海駆逐艦ケインがあわや転覆かという状況でこの「指揮権の委譲」が起こります。南太平洋、フィリピンの東海上で台風に見舞われた駆逐艦隊は、南に進路を取っていたのですが、激しい北風でバラバラになり、ケインは今にも転覆しそうな状況に見舞われます。燃料も消費して軽くなったケインは北に進路を変え、風に舳先を立てて嵐を防いでいます。空いた燃料タンクに海水を入れて喫水を下げ、船体を安定させたい副長のマリックは艦長にそう進言するのですが、艦長のクイーグはそれを許さず、進路を艦隊のいる南に向けようとします。

 

 「『本艦は困難におちいっておらん』とクイーグは言った。『百八十度に変針じゃ。』『現在のままにしておくんだぞ!』とマリック(副長)が間髪を入れずに(操舵手に)言った。『俺の言うとおりにするんだ!』と、副長が叫んだ。・・・スティーブ・マリックは大股に艦長のそばへつかつかと歩み寄って挙手の敬礼をした。『艦長、残念ながらあなたは病人です。海軍服務規程百八十四条により、一時わたしがあなたにかわって本艦の指揮を取ります。』(新庄哲夫訳)」

 

 このように書くとどうも緊迫感が伝わりませんが、長い文章の中で駆逐艦ケインは本当に転覆しかねない状況だったことが示されています。事実、この後で転覆した僚艦の生存者を収容しています。読んでみると副長マリックの判断は誠に順当だったと思わせます。マリックのいう海軍服務規程184条は「下級士官ガ指揮官ヲ逮捕シ、或イハ患者名簿ニ栽セル事ニ依リ、指揮官ノ任務代行ノ必要ガ生ズル極メテ特殊且ツ異常ナ状況ノ発生ハ十分ニ考エラレル・・・(新庄哲夫訳)」と一応は認めているのですが、これは上級機関の命令の下に行うこととしています。もしそれが不可能な場合は、状況がすべて分かるように、まあ、証拠を残しておけといっているのです。

 

 この事件の後、当然ながら軍法会議が開かれるのですが、だれも副長マリックの弁護を引き受けるものはありません。全ての弁護人候補がマリック副長は有罪だと思っているからです。唯一有能な弁護士グリーンウオルド大尉がその弁護を引き受けます。軍法会議でグリーンウオルドは、精神科医が異常ではないと証言したクイーグ艦長を徹底的に緊張状態に追い込み、その異常性を明らかにすることでマリック大尉の無罪を勝ち取るのです。しかし、無罪を勝ち取ったマリックは、その後上陸用舟艇隊の指揮官に転任になり、海軍での出世は終わります。指揮権の委譲が海軍という組織の中でいかに厭われているかの証左でもあります。

 

 お断りしておきますが、「ケイン号の反乱」はあくまでもハーマン・ウォークの小説です。「アメリカ合衆国軍艦ケイン号という艦船は実在しない・・・さらに過去三十年間の記録を調べても、海軍服務規程第百八十四、五、六条に基づいて海上で艦長の交代が行われ、そのために軍法会議が開かれたという実例はない。(新庄輝夫訳)」と本人が作者ノートにも書いている通り、この小説はあくまでもウィリー・キースという若者が海軍の予備士官になり、最終的にはこの掃海駆逐艦ケインの艦長にまでなるという物語の中での話です。

 

 もう1つ、非常に特殊な指揮権委譲の例があります。海洋小説ではなく、司馬遼太郎の「坂の上の雲」、いわば歴史小説での話です。明治37年(1904年)に日本は日露戦争の最中にあり、日本海軍はロシアの極東艦隊を旅順港に追い詰めてはいるのですが、ロシアはバルチック艦隊を編成して日本艦隊を撃滅するために、遥かなバルト海から日本まで長途の遠征に出ているのです。日本海軍としては何としてでも旅順港に逃げ込んだロシアの残存艦隊を沈めてから、バルチック艦隊を迎え撃つ準備をしなければなりません。

 

 そのためには、旅順要塞を攻撃している日本陸軍に二〇三高地の要塞を落としてもらい。そこで観測しながら一望のもとに見える旅順艦隊を重砲で攻撃する必要があります。これに日本という国家の存立がかかっているのですが、担当している第三軍の司令官乃木大将は旧態依然の戦術で、要塞全体に総攻撃をかけては、いたずらに無防備の兵士を死なせています。援護の砲撃のない歩兵がいくら前進してもただ大砲や機関銃弾を浴びるだけです。1万人の兵士が1回の攻撃で1千人に減るという凄惨な状況が数か月も繰り返されていました。

 

 しびれを切らしたのが、満州軍総司令部の総参謀長児玉源太郎大将です。何とか第三軍を説得して二〇三高地を陥落させたいと思うのですが、そこで問題になるのが指揮権の委譲です。第三軍の司令官である乃木大将を超えて指揮を取れば、軍隊が一番忌み嫌う指揮権の剥奪になります。「・・・できれば児玉は胸襟を開いて乃木と語り、むしろ乃木の方から——児玉たのむ。何日か、目鼻のつくまでわしの代行をしてくれ。と言わせることであった。(以下「 」内は「坂の上の雲」の文章)」というのが児玉大将の思惑でした。

 

 しかし、もし乃木大将がそれを嫌だといえばことは重大です。「軍司令官というのは…天皇が親授する職なのである。天皇以外の何者もその指揮権を剥奪することのできないはずであった。」ということですから、児玉大将は別に非常の措置を取っていました。それは満州軍総司令官大山巌元帥の命令書です。「児玉のポケットにあるのは、その命令書であった。ただし大山自身が第三軍の指揮を取るのではなく、『大山の代理としての児玉』に指揮をとらせようというものであった。」つまり、どうしても乃木大将が嫌だといえば総司令官の命令で一時的に児玉大将が指揮を取るということです。この強制的指揮権の委譲を使えば、乃木大将の面目は丸つぶれで、第三軍の士気も低下するでしょう。

 

 二人だけでじっくり話をし、今の重砲の使用方法に問題があるということを認識させた児玉大将はこう切り出します。「『そこで』と児玉はいった。『おぬしのその第三軍司令官たる指揮権をわしに、一時借用させてくれぬか。』みごとな言い方であった。言われている乃木自身さえ、この問題の重要さを少しも気づいていなかった。乃木はその性格からして、おそらく生涯このことの重大さに気づかなかったであろう。『指揮権を借用するといっても、おぬしの書状が一枚ないとどうもならん。児玉はわしの代わりだという書状を一枚書いてくれんか』」

まあ、随分ないい方ですが乃木大将はこれを快諾しました。こうして手に入れた指揮権を表面上は「大山閣下の指示により、乃木軍司令官の相談にあずかることになった。」といっただけで、児玉大将は砲術の専門家を前にして大声で怒鳴ります。「『命令。二十四時間以内に重砲の陣地転換を完了せよ。』」。つまり、離れた位置にあった二十八サンチ榴弾砲をすべて二〇三高地の麓に集めようというのです。この榴弾砲は本来海岸防備用のものでものすごい威力を持っています。これを集中的に使おうというのです。

 

 二〇三高地の激戦を書くのはこの文章の目的ではありません。結果からいうと、この榴弾砲の集中砲撃によって敵の要塞を砕き、二〇三高地を占領するまでの時間は、わずか1時間20分でした。そして占拠した二〇三高地から観測して、旅順港内にいたロシア艦隊、戦艦5隻、巡洋艦2隻、駆逐艦5隻、砲艦2隻、水雷砲艦2隻、水雷敷設艦1隻、輸送船1隻を数日のうちに撃沈あるいは撃破し、その上造船施設、市街地も砲撃し、日本海軍にバルチック艦隊を迎え撃つための準備時間を与えたのです。

 

 念のため、私が二〇三高地に行ったときに撮った旅順港の様子と日本式28サンチ榴弾砲の写真をお見せします。


 砲力を分散させ、援護なしで兵力の逐次投入という、最低の戦術を数か月も繰り返した旅順での戦いで、日本軍の死傷者は合計62,000名に達しています。二〇三高地だけの戦闘でも戦死者は6,200人になっているのです。口径28センチ、重さ10.7トンもの榴弾砲を多数集中させ、1個で217㎏もある弾丸を、実に2,300発も集中して使用した児玉大将の戦術は、見事というほかありませんが、それを非公式の指揮権移譲によって成し遂げ、例の大山元帥の命令書は使わなかった、という点に注目せざるをえません。

 

 旅順港のロシア艦隊に対する砲撃が始まって間もなく、児玉大将は総司令部に戻ります。旅順要塞が陥落し、第三軍司令官乃木希典大将とロシア旅順要塞司令官アナートリイ・ステッセル中将との「水師営の会見」があったように、歴史の上で、旅順での戦いの功労者は乃木大将であり、児玉大将のこの字もありません。同時に、この異常ともいえる指揮権の委譲は全く表面に出ることはありませんでした。よき武人であり、戦時の極度の緊張のため、戦後すぐに亡くなった児玉源太郎大将の、それが望みでもあったのでしょう。

 

 余談になるのですが、私の母方の祖父は軍人で、中頭(なかづ)少将とわたしたちはいっていたのですが、この二〇三高地の戦いに出ていました。小学校に入るか入らない頃の私に向かって、よくこんな話をしてくれました。「戦場でな、陽が暮れると、担架! タンカ! 衛生兵はおらんか! という声が毎日聞こえたもんだよ。」祖父にとって死傷者62,000人というのは決して遠い話ではなかったのです。 

                                               2021.8.20.