18 指揮権と指揮系統、そして責任(後編) 

—指揮官の責任/軍法会議—

 強大な権限を持つ指揮官には、それに伴う責任があるのは当然です。第16回でお話した艦長の任命書の中に、「・・・危機に際しては、適切にこれに対応し、貴官及び部下の一人たりとも、過誤を冒すべからず・・・」という文言のあることをお忘れではないと思いますが、要するに問題を起こせば責任をとらせるぞ、という宣言です。これは艦長や士官に限らずより権限の多い司令官クラスにも当然適用されます。

 

 ホーンブロア・シリーズの第7巻「勇者の帰還」に「・・・そうなれば、サザランド号喪失の責任を問われ、海軍勤務十八年目で、軍法会議の裁きをうけなければならない。軍法会議は、たぶん、彼が敵前で全力を尽くさなかったとして有罪の判決を下すだろうし、それに対する罰はただ一つ、死刑だ — 陸海軍条例のなかで、あの条項だけは、最後に罰を軽減する言葉『罪一等を減じ—』というものがない。バイングは十五年前あの条項のもとに銃殺された。(高橋泰邦訳)」というくだりがあります。

 ホーンブロアは小説の中の人物ですが、このバイングというのは実在の人物で、John Byingという海軍中将です。普通はジョン・ビング提督といわれているようですが、ミノルカ島の海戦での責任を問われたのです。ミノルカ島は地中海西部にあるスペイン領ですが、1708年に英国がそれを占領して領有していました。しかし1756年、いわゆる七年戦争が始まるとフランスがこの島を攻撃します。

 

  英国政府はこの島のマオン港にあるセント・フィリップ砦の救援をビングに命じるのですが、彼の艦隊は老朽し乗組員の不足した戦列艦10隻で、おまけに出航命令が5日も遅れるという決定的に不利な態勢でした。ビングはいろいろ抵抗したのですが、それは叶わず、5月8日にジブラルタルを出航、向かうミノルカ島にはすでにフランス軍1万5千人が上陸していました。         ジョン・ピング提督   

 5月19日、ミノルカ西方沖でビングはフランス艦隊と遭遇します。ビングの艦隊は風上に占位したのですが、浅い角度でフランス艦隊に並航したので、全艦が射程距離に入るまえに先頭艦デファイアンスは集中攻撃で損害を被り、戦列を離脱します。ビングの旗艦ラミリーズの艦長は戦列を崩してもフランス戦隊の中央部を攻撃することを進言するのですが、そういった行動でトマス・マシューズ提督が軍法会議にかけられたことを知っていたビングは、それを許しません。結局フランス戦隊は同規模の英国戦隊から無傷で逃走したのです。

 これが軍法会議にかけられる原因となったのですが、本国からの連絡でビングは解任、拘束されてしまいます。砦はとうとうフランスに降伏し、全将兵は英国に送り返されます。本国に送り返されたビングは「戦時服務規程違反」の罪で軍法会議にかけられます。この会議で、ビングは「怯懦」と「不忠実」、つまり臆病な行動や国家に忠実でない行動はなかったと無罪になるのですが、「最善を尽くさなかった」という点で有罪となります。つまり、命をかけてもフランス艦隊を追撃すべきだったと判断されたのです。                                                              第37回展 「海戦」 棚山 桂子さん 作

 戦時服務規定に違反して有罪となった場合、それを緩くする条項はなく、自動的に死刑となります。周辺の海軍士官たちはビングに同情的になり、彼を救う唯一の方法である「国王の赦免」を願うのですが国王ジョージ2世はそれを認めず、1757年3月14日、戦列艦モナークの艦上でビング提督は銃殺刑に処されたのです。「バイングは十五年前あの条項のもとに銃殺された。」という記述はこのことを指しています。

 

 死刑の執行がどのように行われるのか、「ラミジ艦長物語」シリーズの第6巻「謎の五行詩」に次のような記述があります。「・・・アロガント号の後檣頂部に黄旗が掲げられ号砲がはなたれる。刑の執行を知らせるのだ。ヤードの先端近くの滑車ロープが一本とおされる。ロープの先端は輪になっており、死刑囚が立っている所へ垂直に垂らされる。死刑執行人は、結び目が首にあたって痛まないように、こまかく気をくばる・・・ロープは滑車から折れて甲板にくだり、主檣のかたわらに至る。二十人ほどの水兵が、艦尾に向いてロープにとりつく。

 

 死刑囚が立っているすぐ下の甲板では、空砲がこめられる。やがて、準備完了の報告がアロガント号の艦長に届く。首の回りの輪がしぼられ、頭巾も締められる。水兵がロープの片方の端に列をつくる。艦長が命令すると、砲手は砲の引き鉄索を慎重に引き・・・強力な火薬二ポンドが閃光と煙と轟音となって噴出する。同時に誰かの合図で、ロープについている水兵たちが一斉に艦尾のほうへ走る。その瞬間、死刑囚のからだは甲板から何フィートも高く吊り上げられ、すべてが終わる。(小牧大介訳)」

 この死刑囚を吊るす滑車はフォアマスト(前檣)のメインヤードに取りつけられます。通常は左舷側が使われ、右舷側は士官専用です。ですから提督といえども死刑になれば右舷側に吊るされるのですが、前記のビング提督は抗議して銃殺刑になったといわれています。日本式にいえば打首を切腹に代えてその面目を保ったというところでしょうか。

 

 それはともかく、軍法会議とは何かというと「軍人に対して司法権を行使する軍隊内の機関」をいいます。一般の裁判と違うのは、法曹である法務官はいるのですが、裁判長も判士も現役の軍人が務めます。なぜかというと、軍法会議の主たる目的は「軍紀の維持」にあり、必ずしも原因の究明が主たる目的ではないからです。また軍事上の機密に触れることもあるので、どうしても軍という組織内での裁判になってしまうのでしょう。

 

 細かいことはともかく、ホーンブロアの時代、軍法会議には判士として少なくとも5名の「艦長」が必要でした。戦列艦の大キャビンで、窓を背にして中央に裁判長、左右に判士がいならび、それに相対して被告が座ります。裁判長の前には被告の剣が横に置かれた机もあります。法務官は尋問や証人とのやり取りをすべて筆記して記録に残さなければなりません。

ホーンブロアは、戦列艦サザランドを激戦の後に失い、フランスの捕虜となって内陸まで運ばれるのですが、うまく脱出してフランスの貴族に匿われ、その後フランスに拿捕されていた英国のカッター型ブリッグ艦ウイッチ・オブ・エンダーを取り戻して艦隊に復帰したのです。その戦歴は英国内でも広く知られ、称賛されているので軍法会議に心配はないと思いながらもやっぱり心穏やかではありません。

 

 「・・・軍法会議のことは何も心配ないのだと、ホーンブロアは次の二十四時間の間に、たびたび自分に言い聞かせはしたものの、やはりそれを待つのは神経のつかれることだった・・・ホーンブロアは審理の細々したことをあとであまりよく憶えていなかった・・・そして証言も証拠調べもすべて終わり、軍法会議が判決の審議中、カレンダーといっしょに待っている間はさらにひどかった。そのときこそ、ホーンブロアは本当の恐怖というものを知った・・・法廷にはいる彼の心臓は激しく動悸を打っており、顔青ざめているのが自分でもわかった・・・

・・・青と金の軍服に身を固めた判士たちは、キャビン全体をおぼろにする靄に包まれているので、ホーンブロアの目には何も見えず、ただ中央の一カ所だけが目に映っている—議長席の前のテーブル中央で、そこだけきれいにものが片付けられ、そこに、彼の剣、愛国者基金から贈られた百ギニの剣が置いてある。ホーンブロアに見えるのはそれだけ、しかも剣は何の支えもなく、そこの宙に浮いているように思われた。そして柄(つか)の方がこちらへ向いている。無罪だ。(高橋泰邦訳)」

 

 そう、剣は審理中、被告から見て横向きに置かれています。審理が終わり、判決の際に被告の帯剣は無罪なら被告に向けて柄の方を、有罪なら切っ先を向けるのです。軍法会議ならではの当時の習慣です。軍人を象徴する帯剣は、被告として拘束されると同時に取り上げられます。裁判の結果、無罪ならその剣を所持するふさわしい者として、その柄の方を示し、有罪ならその剣を持つにふさわしからぬ者として、その切っ先に刺されることを象徴しているのでしょう。赫赫たる戦果を挙げて国中の歓迎を受けて帰国し、周りから何の心配もいらないと励まされたたホーンブロアでさえ、軍法会議にさいして「本当の恐怖というものを知った」のですから、普通の軍法会議の被告がいかに怯えるか、容易に想像できるというものです。

 

 その原因の一つが、判士が法曹ではなく現役の軍人であることにあります。軍法会議の目的が犯罪の原因究明ではなく、軍規の維持にあるのですから、例えば「最善を尽くさなかった」という判断が「本当に敵を追いかけるだけの状態にあったのかなかったのか」を究明するのではなく、「戦術的に追いかける必要があったのではないか」を判断することになるのです。当事者でない軍人の判士が戦術的に判断すれば「艦隊の指揮官として、どのように損害を受けようとも、追撃を命令すべきあり、それをしなかったのは最善を尽くさなかったと判断せざるを得ない」と結論しがちになるでしょう。

 

 まして、悪意をもって被告をおとしめようとすれば、いわば身内の裁判だけにそれが容易になります。その例が先に書いたラミジ艦長物語シリーズの「謎の五行詩」に出てきます。ラミジの父親ジョン・ラミジは第10代ブレイジー伯爵で、海軍の提督であり新戦術の提唱者でもありました。旧守派のゴダート提督はジョンの軍法会議で判士を務め、彼を罷免していまいます。そして息子のニコラス・ラミジを何とかおとしめようと画策するのです。

 

 ブリッグ艦トライトンの艦長(コマンダー)であるニコラス・ラミジ海尉は、ジャマイカ島へ向かう船団の護衛を命じられます。船団にはトパーズという名の奇妙な船がいて、ラミジはその船客がおそらく名のあるフランスの亡命者だろうと思っています。護衛の途中、船団に合流を申し出たピーコックという船が実はフランスの私掠船で、ラミジがこれは怪しいと責任者であるゴダート提督に進言するのですが、一笑に付されてしまいます。果たしてピーコックは真夜中にトパーズを襲い、それを奪おうとするのですがいち早く気付いたラミジに阻止されます。船団はその後すぐ大嵐に見舞われ、バラバラとなりトパーズも難破して乗客も遭難したとみなされたのです。

リア・アドミラル(海軍少将)であるゴダートは、嵐で散々やられた乗艦の戦列艦ライオンが途中で出会ったフリゲート艦に曳航されてジャマイカ島に到着すると、すぐ当地の司令長官であるサー・ピルチャー・スキナー提督(海軍中将)に報告書を送り、私掠船の襲撃を阻止しなかった罪でラミジを軍法会議に召喚するよう要請、スキナー提督はゴダートの同類ですから軍法会議の開催を命令するのです。ラミジは拘束され、戦列艦ライオンに移されて軍法会議の始まるのを待ちますが、その間にいろいろな対策を考えます。

 

 軍法会議は戦列艦アロガントで行われました。この戦列艦の艦長ネピアが議長で、6人の艦長が判士を務めます。ゴダート提督は「告訴人」として法廷に出ているのです。告訴状は、簡単にいうと私掠船ピーコックがトパーズを襲った時にラミジがそれを阻止できなかったから、戦時条例違反(死刑にすべき)だという内容です。確たる証拠はないのですが、トパーズに乗っていた要人は嵐で遭難したので死人に口なしという前提に立っています。ゴダートの乗艦である戦列艦ライオンの艦長クロウチャーは、告訴人側の証人として事実と違う証言を繰り返します。

 

 実はトパーズに乗っていた要人とはフランス亡命政府を指導するブルターニュ公爵とシャムベリー伯爵というとびっきりの重要人物、それとトパーズの船長ヨークで、ラミジの活躍で生きていて密かにこの港に停泊していたのです。そしてラミジの証人として出席しようと法廷に申し出ます。それを聞いたゴダートは色を失って告訴を取り消すと宣告します。それではラミジは無罪にはなっても、不名誉な証言を消すことができません。

 

 告訴を取り消すかどうか、法廷が決めることになるのですが、この辺りが軍法会議の山場で、「『当法廷は、告訴人による、ラミジ将校に対する告訴取下げ申し立てを検討し、あわせて、被告人に答弁の機会を与えるべきだとする被告人の申し立てを検討した。』(小牧大介訳、以下この項同じ)」そして議長はラミジに不利となる種々の様子を述べたあとで「・・・声の調子を全く変えずに、ネピアはまだ続けている。『慎重なる検討の結果、当法廷は告訴人の申し立てを却下するものである。査問は継続される。では、被告人、次の証人を呼びなさい。』」

 

 こうして、最終的に告訴取消は否定され、審理が継続されてラミジの業績がフランスの要人3人によって証言されるのです。なぜ公正な法廷指揮が難しいかというと、裁判が終われば議長や判士たちは艦長、告訴人は提督、しかもこの艦隊の副司令官という身分であるからです。その意味で、この議長や判士たちはかなりのリスクを背負って判断したといえるでしょう。まあ、これは小説ですから最終的にはラミジに有利な展開になるのですが、軍法会議の議長である戦列艦アロガントの艦長ネピアが公正な法廷指揮を行った、というのがこの軍法会議のハイライトでもあります。

 

 もう1つ、軍規の維持という軍法会議の目的が明瞭に示された事例があります。前にも紹介した司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくるロシア、バルチック艦隊の第3戦艦戦隊司令官ネボガトフ少将の話です。明治38(1905)年5月27日、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を迎え撃った日本の連合艦隊は、砲戦によってロシアの艦隊に壊滅的な打撃を与えます。しかし、ロシアの第3戦艦戦隊は「浮かぶアイロン」といわれた老朽艦の集まりのために、当初の海戦では日本側に無視されたために損害を負わず、無燈航海の訓練をしていたこの艦隊は、夜陰に乗じて戦場を脱出、ウラジオストックを目指します。

 ネボガトフの艦隊は、大損害を受けて途中から加わった新型戦艦「アリョール」を含めてわずか5隻、翌5月28日は快晴のためもあって、日本海軍の索敵網にかかって午前8時には発見されてしまいます。旗艦「ニコライ一世」の前に現れたのは、旗艦三笠を含め全部の日本艦隊でした。「『三笠』は依然として先頭にあった・・・ロシア側にすれば、昨日飽きあきするほど繰り返し見せつけられた東郷の第一戦隊の陣容であり、おどろいたことにどの艦の外観も変化しておらず、いまから観艦式にでもでかけるようにいきいきと航進してきた・・・(いったい、あれだけ奮戦したきのうの戦いは、あれは何だったろうか)とスミルノフ大佐(旗艦艦長)はおもった。(司馬遼太郎、以下同じ)」                    ネガトフ少将

 

 「このネボガトフ艦隊を囲むようにしてあらわれた日本側の陣容は水雷艇をのぞいて二十七隻であった・・・ロシア側の五隻の軍艦には、なお生きている乗員が合わせて二千五百人いた。かれらはまるで屠殺場に送られた家畜のようなものであった。」という状況のもとで、スミルノフ大佐は司令官ネボガトフに降伏を進言します。もしここで降伏すれば、ネボガトフは間違いなく最高指揮官として死刑になります。それでもネボガトフは「・・・勝ち目のない戦闘で二千五百人の生命をうしなわしめるのは無用のことだ、という結論に達していたらしくひどくおだやかの物言いで、『降伏しよう』といった。」

 

 「ついでながら、ネボガトフとよく似た処置をとった艦隊指揮官としては、日清戦争の時の北洋艦隊の司令長官丁汝昌(ていじょしょう)がある。かれは・・・万策尽きて降伏し、包囲していた日本の連合艦隊司令長官伊東祐亨(すけゆき)に艦船を差し出した。その理由は部下の生命をすくうためということで、ネボガトフとおなじであった。ただ丁汝昌はそれを決定するとともに毒をあおいで死んだというちがいだけがある・・・清国末期の北京政府でさえ丁汝昌のこの行動をゆるさず、その葬儀を営なめなかったほどである。」

 常識的にいえば、ロジェストヴェンスキーは、長い航海中、麾下の艦隊の艦隊運動という基本訓練を行わず、そのために合戦に際して単縦陣をつくれず、病死した第2戦艦戦隊の指揮官を任命せず、無燈航海の訓練をしなかったために、夜戦で日本の水雷艇の攻撃を受けやすくし、負傷の後で装甲の多い巡洋艦でなく、お気に入りの艦長がいる駆逐艦に移乗し、そのために日本海軍の捕虜となる、と、まあこれだけ並べても艦隊の最高指揮官として全くその資格を欠くといえるでしょう。

 

 戦闘結果からいうと、ロシア艦隊は21隻が撃沈または自沈、6隻が日本側に拿捕され、6隻が外国で抑留されています。全艦艇は38隻でしたから損害は87%に上り、戦闘艦は全部失い、残った  ロジェストヴェンスキー 

ものは戦闘できる状態ではありません。いっぽう日本側の損害は沈没した水雷艇3隻で、被害はあるものの艦艇の損失はほとんどないといってもいいでしょう。日本の戦死者は117名で戦傷者583名、ロシアの戦死者は約5,000名、捕虜が6,106名ですからこの結果からしてもロジェストヴェンスキーの責任は重いといえましょう。

 

 「結果からいうと、ネボガトフは戦後、クロンシュタット軍港において軍法会議にかけられ、死刑を宣告された。しかも軍法会議以前に軍籍をむしりとられていた。皇帝ニコライ二世は、力尽きて捕虜になったというかたちのロジェストヴェンスキーに対しては寛大であったが、ネボガトフに対しては峻烈で、皇帝みずからが海軍法廷にのぞんだほどである。もっとものちに死刑がゆるされ、十年の要塞禁固の刑に処せられ、各艦長も禁固刑に処せられた。」

 

 「法廷ではネボガトフはおとなしくなかった。かれはロシア海軍の腐敗を衝き、勝つための真剣な準備や注意がほとんどなされておらず、艦隊は棄てられたも同然であった、と主張した。」ロシアの法廷は、まあ大方の海軍でも同様だと思うのですが、一戦も交えずに降伏した、という一点で軍法違反と判断したといっていいでしょう。あれだけの過誤、というよりも無能ぶりを発揮したロジェストヴェンスキーが軍法会議の対象にならなかったのが不思議ですが、そのあたりが軍法会議の限界ということでしょうか。  (2022.5.17)